日記
力
今日サロンのお稽古で、北溟先生の展覧会の作品を見ながら師弟の話に。
師を亡くしてからが、本当の学びであるということを語ってくれた方があり。話がはずみ。
昔から守破離と言われていて。確かに師に着いている間は教えてもらえるというどこかに甘えがあって、いくら離の境地に至ったと思ってもどこか無意識に頼っているものがあるのかと。まさにそれはそう思う
母がなくなったことで、感じたことをお話しし。
母がいるときはどこかひ弱な部分があり、良く母に話しては勇気付けられていたことがありました。でも母がなくなったことで、そういう存在がなくなったという意識は自然と芽生えるのか、まさに肝がが座るというか。開き直るというか、本当に動じることが少なくなっていきました。
それはどうしてなのか、自分でもわからないのですが。
ただ守られているという感覚がとてもあり。大丈夫とどこかで思えるのです。もちろん様々な成功体験も重ねてきた経験値というものかもしれませんが。
いつも亡くなった母が側にいてくれる感覚があるとある時お話したことがあって。その時に死んだ人か執着して、成仏できてないといわれたことがあり。驚いて、あまり心配掛けたら母が成仏できなかったらあかん。と思ったのですが…。
でもそれは、やはり仏の心、姿なのだと思います。
阿弥陀仏が、一刻も早く苦しむ人を助けに行くために足を浮かせて立っていらっしゃると、いう話を聴いたことがあります。まさに、親心とは生きていても死んでからもその様なもので、仏になっても子を思いいつでも飛んできてくれるそんな暖かな心だと思い感じるのです。だからこそ、残された子供が真に強く逞しくなっていくのだと。
ある再会の時に、両親が揃って夢に出てきてくれて満面の笑みで喜んでくれました。本当に出会うべき人に会わせてもらえたのだなと、そう思いました。
なかなか心通わず苦しむ時もあり。でもそれは今、必然の時であるようにも思え、これからのために与えられた試練修業のようにも思えるのです。
いつも両親が高いところから見守ってくれ、何かあればすぐに飛んできてくれ、間違わないように道を照らしてくれているようにも感じます。
素晴らしい方々にご縁を頂き気付きをいただけて、共に学ばせていただけて、何と豊かな有難い環境におらせてもらえるのかと、改めて感じ。
そんな与えていただいたことを、残りの時を勤め励めといいきかせながら。何より巡り合わせて頂いた両親が心から喜んでくれた、俗世を越えたような大切な大切なご縁を成就したいとそう思うのです