日記

2024-07-15 07:28:00

戦前の小学校で、級長を勤め。体も大きく利発な子供だったようです。

もっと背の高い男の子が隣の席になり、いつも父の読んでいる漫画を貸してあげてたそうです。その子は朝鮮人で友達もなくあまりしゃべらない子だったそうで。ある日両親の職の都合でか突然学校をやめ来なくなったそうです。

ある日、父は先生に呼ばれ職員室に行くとその子に貸してあった漫画の本が教卓の上に置かれてあったそうです。先生からいつも漫画が読めて嬉しかったと、そういって漫画を小川に返しておいてくれと言って持ってきたと。

父も当時は貴重だった漫画の本でしたが、急な転校で致し方ないとあきらめていたそうで、またその漫画をずっと楽しんでくれたらいいなとそう思っていたそうなのですが、律儀にまたわざわざと小学校に出向いて来てくれた、その時の胸の温かさが忘れられず、子供の心に深くきざまれたそうです。その事は死ぬまで私たちにも話してくれて、地域のお仲間にも語っていたそうです

親となり私の小学校在学中にPTA会長を二期勤め、当時は日教組全盛で、私たちの卒業式で日の丸をあげる君が代を歌うその事で論議が重ねられ、生徒の私たちも巻き込んでの論争となりました。当時私も児童会役員や学級委員も勤めて、生徒のまとめ役となりました。また同時に在日の一人の子が韓国名で式に出ると主張され。

子供の私には深くまで理解できませんでしたが父や校長日教組の先生方の間で様々と議論が交わされていたようです

 

そんなことがきっかけで、父の韓国朝鮮の歴史問題は父のライフワークとなり、そのときに母校でおこったことは大阪の小学校の歴史となり語り継がれ、市大の先生方の知るところとなっていったそうです。

地域活動に加わることで、岐阜の本家から物心も付かぬ間に3歳で大阪の叔父の家の跡取りとして養子としてつれてこられた父は、どこか戦前の日本に連れてこられた朝鮮の人と感じるものがあったのか。ふるさとということを心にもって活動していきました。

在日韓国人のふるさとは韓国と共にこの地であるといつも語りつづけ、民族学級の開設にも尽力しその後も民族学級の活動には変わらず力を注いでいました

 

なくなった今も、実家の書庫はそのままで。

その蔵書は歴史書ばかりで、貴重な本もあるようです。

寡黙でお酒も飲まず、いつも本を読んでいた父の姿。

その姿の奥には様々な思いと活動があったのだと、改めて思う

77歳のお祝いのときには五人の降ってでた話から私も私もと話が広がり、開けてみれば200人以上の方々が参じてくださり。その中にはPTA会長の時に議論を交わした先生方や市大の現役教授の先生も来られて。それは賑やかに祝っていただきました。

死んだときにその人の生きざまがわかるとも、言われますが。

民族学級に携わった先生方のお参りに来てくださったお言葉涙が、今も忘れられません

そう、今年は父の七回忌。

父の姿を勇姿を思い出させていただけました

感謝。

 

2024-07-14 23:11:00

心根

同じ過ちを犯した人二人に、偶然居合わせて

 

心根の変わる人と変わらない人の断然違うことを思い知らされる

これも何かの思し召し?

 

2024-07-14 22:48:00

心の奥

心の奥の奥に気づいた、静かな情熱は。

きっと永い年月に知らず知らずに積み上げられて、

これからも積み上げられて大切にしていくものなのだと

 

そう思う

 

そんな感覚をもち合わせる人は居るのだろうか?

響き合える人はきっと居てくれると、そう願う

 

 

2024-07-14 22:43:00

思い出

懐かしい時代のものを見ると、まるでそこにいたような感覚となって。

タイムスリップ

テニスラケットを持った真っ黒に日焼けしたショートカットの溌剌とした自分が思い出されて。

 

とにもかくにもいいお顔

互いの思いが深く伝わる

 

 

2024-07-14 14:34:00

言葉

都合の良い言葉は

同じことを繰り返し

取り返しの付かないことになるのです

 

言葉とは恐ろしいものです