日記
姿
どうか、今度こそ。
妨げなく、静かに清みきった場所で輝き見えた姿へ。
心からそう願う。
地震
東京で全然テレビを見ていなかったので。
能登の地震の今の全容を知る
帰省中の懐かしい実家の団らんが、地獄となって。
涙が涙がとまりません
どうかどうか、安らかに安らかに
仏たち
一連の行事がすんで、東京駅へ
ステーションギャラリーで、みちのくいとしい仏たちを
東北の民間仏を集めた展覧会
仏師ではない大工さんや木地師によって作られた仏様が。
何とも素朴であたたかくて。最初はその姿に現代アートを見るような心の躍動があったのですが。
その優しく微笑む沢山の仏様に囲まれていると、東北の厳しい自然と戦い共に生きたその時代の東北の人たちの生きざまや心の中にある思いが何となく何となく響いて来て。心が熱くなる。
中でも自らの乳を搾るお地蔵様の姿を見て、生きるということのすぐとなりにいつも添うて人々を癒し力付けたであろうことが思い浮かび、胸がいっぱいになりました
ただただ素朴なものが様々なことを物語ってくれている。
どこか足らぬ抜けた自分を言い訳しながら…安堵もし。
そしてみちのくの仏様のようでありたいと思う
覚悟
沢山東京に滞在し
様々な方々と接する時間を得。
特に大阪からのお稽古で、なかなかゆっくりとお話しする機会は少なかったので、夜のお食事にお付き合いさせて頂いて様々と思いをお聞きでき、私も思いを語り、良い時を過ごさせて頂き実りある時間を過ごさせて頂きました。
自分自身にある覚悟が決まると、覚悟を決められている方が見えるようになって。
さらに自分の覚悟に間違いなく、その道への歩みに力を頂いて。
違う道かと思った覚悟の道が繋がっていて、ああ導かれているのだなと思う。
善きことは自然に繋がりより深く繋がり、悪きことは自然にあぶり出されて皆から遠巻きになって…。その事をおもいしらされる。
これまでの思いは清いものであったことに安堵と喜びに溢れ、
さらにこれからの道に歩む自分に澱みがないかと、背筋がのびる。
凡人の私がとてつもない環境を様々と与えられ、その事に想いを馳せ。
ただただ育たねばと、そう思う
憧れ
小さい頃から勘がよくて面白いと可愛がられました。が、祖母、母からあんたは我が強いから気ぃつけなあかんと、その事をいつも言われて育ちました。
少女のころに憧れた姿は、大人になって求められた姿と同じでした。
求められなければ、きっと憧れのままで終わっていたでしょう。
様々と気づかずに一生を終えたであろうことも多々。
お陰さまです。だから今がある。
自分の我が押さえられず、至らぬゆえに逃げ出したことも。再びと与えていただいたのにまた逃げ出そうとしたことも。でもその都度引き返せと言う声があり。答えの出ぬ問いに引き戻され。
至りません。変わりません。申し訳ないことばかり。
でもその憧れの姿にと思う気持ちは、増していき。
いつしか祖母が母がそうしていたように、手を合わせていました。
でも凡人ゆえ、手を合わせてもどうしようもない自分がいて。
最後だけはわがまま言わせてほしいとおもっている。
だから動けずにいるのです。
求められる姿は憧れの姿はあまりに尊くて
こんな私では申し訳ないから。