日記
あやまち
あやまちとは誰しもあるもので…。その事を認められる心のあることが素晴らしい事なのだとおもいます。
誰しも私も間違いをおかしてきました。絶対に間違っていないと自分に言い聞かせたこともありました。が、間違っていることはどこか心が痛くて、その事を認め過ちとわかるとそれは素晴らしい血肉となって己の輝きに変わるような気がいたします。
子育てなどは今から考えるとまちがいだらけで。でも、ただ一つ良かったなと思うのは、駄々をこねたり、うそついてるなと思ったときに子供たちに、「嘘ついてませんてみほとけ様にいえますか?」といってしつけていたことかなと。その度に息子たちはごめんなさーいと泣いていました。
大姑が結婚と共にお仏壇を揃えてくれ、仏教系の幼稚園に学ばせてもらったお陰と…、産まれた時からまんまんちゃんがそばにおられたことは何よりありがたかったです。
そんな環境は今はほとんどないのかもしれませんね…。
そんな子どもたちの子育ても大きくなるにつれ四苦八苦。過ちだらけの親でしたが、道しるべとなる事柄を教えて頂いたり、不安なことを安心にしていただいたり、共に語り合える友があったり、本当に恵まれた環境におらせて頂けてありがたいことでした。何とか息子たちも世の中で迷惑も掛けず暮らさせていただけています。感謝の気持ちで一杯です。
ある時に、頼まれた人助けがどうしても上手くできず、何でも話していた母にもなにも語れずただ苦しんでいました。そんな私を見て、母がたまりかねたように、ご恩は忘れたらあかんよ…と何気に言ってくれました。
添うことしかできないけれど、ただただ側におらしてもらおうと思いました。何もできず至らずご恩は返せませんでしたが、その方が新しい道をと歩まれていく姿をみて不安もありましたが…、少しはお役にたてたのかなと思い…。
至らぬ過ちだらけの人助けでした。
過ちと認める気持ちがあれば…またその過ちの上にひかりが灯り、望みの上の望みに導いてくれるように思います。
正しいと思う事、過ちと思う事は人それぞれで、同じように思えることは奇跡のようなものかもしれません。
ある方がお人に望まれ頼まれてされたことなのですが、その事に対して
その人の運命を変えたらあかん、変えた後により苦しみがきたりする、と思うことがある。というようなことばがありました。
別の道を歩んでいてもそれぞれに過ちを見つけ同じ様に思え、進んでいけることの大切さを痛感いたしました。それが本当のお導きなのかと…。
その事をありがたくと、自分の過ちを見つめ思う道を見える道を共にしっかりと歩いて行くのが、短いこの世を生きるということなのかなと。
玄の時代にさしかかるこの時に思わせていただけ…。ありがたいことです
道
子供の頃から様々な事柄が。誰も通ることもないような辛いことも哀しいこともあり。厳しい鍛練の道もあり。それにひたすら向かっていたら…。ご褒美のように望みが叶って。
生きる全ては学びの道で、その時に知らずに望んだもの見えたものが深い心に刻まれていて、知らず知らずに希望の道を歩んでいたのかもしれません。
彷徨わず、今あることを懸命に勤めること。ただただ歩むこと。そして自ずと見えて来るものが道のような気がします。それが信念というものなのでしょうか。
願いや思いを込めて矢を打つといわれますが。自分が当てるなどとは畏れ多くて、凡人なのでうまく当たるわけもなく…。かまえた自覚もないような矢にありがたくも的を持ってきて頂いているような思いがいたします。
だからこそ、これまで起こった事柄に感謝を、この上ない奇跡のような事柄に心から感謝を込めて、一歩一歩とあゆんでいきたいと思います。
夢
吉夢でした。
ありがたいことです。
短絡
何事も。
今年はゆっくりとじっくりと。
だから、大丈夫。
ふと
血を吐くように絞りだしようやく発することができた言葉が、無責任なように解釈されて…。
そう考える人であるということは、その人の言葉が無責任に語られてるてこと?言葉遊びだったのか?
そうなのであれば、哀しい。この上なく哀しい。