日記
円融無礙
YouTubeでまた同じく思っていることが語られていて
そうそうと相槌うち、素晴らしいと思う
体験したことも語られていて
先日体験したありがたいことの、その時のその感覚も思い出されて
同じ感覚を持たれてるのだと
感動もする
円融無礙と心にある願い
ここにもと
そう感じる
運命
やはりあると思います
宿命も
親子というのは宿命としかいいようなく
来てくれた子が子供となり
選べもせず全くの無の世界から結ばれたひとが親となり
だからこそ大切にしなければならないものだと
運命は
与えられるものではなく
すがるものではなく、諦めるものでもなく
今あることをいかに運命ととらえられるかではと思うのです
与えられること、起こる出来事、様々な人生の事柄をキャッチし、それをいかに自分のなかで昇華させていくか。自分でいかにとらえられるのかが運命のような気がします
今、様々に感じること、起こること。
それを運命として大切に育てていきたいとそう思う。
自分の意識を越えたもの、自分ではとうていなしえないこと、様々な偶然を確かなお導きと感じて。それが現実の大きな力になって、皆人の次代の人のためになればこの上ない人生
そう思うのです
出会いも様々、縁も様々。
でも確かな出会いこの上ないご縁と大切に思うことができることが運命と。同じく思ってくれるお人が運命の人といえるのかもしれません
そしてまた、それを越えたものも
確かにあるとそう思うのです
考え
この歳になると
様々と生きてきたことも省みられて
守るべきものもなくなって
素直に生きてる
本能に
そして自分の幸せに
そして思いやりのきもちに
今までとまた違う形で
学舎
のどかな、優しげな。どこか懐かしい風景を見て
なぜか胸が熱くなり
涙溢れる
公園掃除
自然や目に見えぬものへの恐れ畏れは、人間のDNAに刷り込まれて
特に日本のような自然災害に見回れて暮らしてきたものに取っては、今も人の心に刻まれて
近寄り難いものは、より大切なものとして人々の求めるところとなり。
自然の恵みに感謝して、穏やかであることに感謝して暮らしを育み。
園長先生のお話で、物心尽く幼い頃に目に見えないものの存在を知るということは生きていく上でとても大切なことであると言う言葉がありました。なるほどと納得したのを覚えています
物心ついたときから、岐阜の本家に帰るとまずお仏壇に手を合わせ。法要ではお接待の裏方のお手伝いをし、村人のコミュニティ?の一躍を担うことに嬉しさも覚え。
いつしか心に目に見えぬものは宿ってくれて、今私を支え励ましてくれる
その空気感に畏れをなして近寄りがたく、私などはとてもその場に居られないと思ったこともありましたが。
時に優しく時に厳しく時に気付きを与えてくれて、幼い頃の思いがわき出て、親の懐に居るような思いとなり
まんまんちゃんあんと息子も育て、悪いことをしたら悪いことしましたか?嘘ついてませんか?まんまんちゃんにちゃんと言えますか?
といえば、私にはたてついていた息子たちも、まんまんちゃんごめんなさいと反省もし。
今彼らを見るに、ありがたいこととそう思う
何も詳しいことはわからないけれど、親に尊い方々に語ってもらったことそして経験させてもらったことはは血肉となって息づいてくれて
なんとありがたい半生をご縁をいただいたことかと感謝の気持ちでいっぱい
今日の公園掃除には、若いかた子供たちが沢山参加されて。皆で落ち葉をひらい、公園が綺麗になっていくことを喜び
先日の法要でも若い世代の方々が親に付き添い、親に変わって、参られて。
小さい頃につれられたお寺の思い出や親の話をされて、人の心は繋がれているとそう思わせられる
公園掃除なんか暇な年寄りにさせておけと豪語し、早起きもせず平気で寝ているひともいて、世の中はなんとそのような人も居りそのように世の中になっていくのかと諦めていたけれども
公園やお寺の人々の姿に確かに人には深く刻まれている心はあるとそう思わせていただきました
若い世代に子供たちに少しでもわずかな我が思いをつなげられたらとことさらに思う